民藝を訪ねて
第五回 融民藝店
山本亨商店 山本直樹
融民藝店
山本尚意
YAMAMOTO Takanori
プロフィール
対談
おかやま住宅工房
中川 大
NAKAGAWA Futoshi
おかやま住宅工房 中川大

02 配り手としての 思いを引き継ぐ。

中川
中川 山本さんにも思い入れがあって店を引き継がれましたが、それまでのカメラマンや企画、販売の経験すべてが繋がっていますよね。
山本
山本 「民藝の精神を広めたい」というよりも、「民藝を通じてできた繋がりを大事にしたい」というほうが大きいかもしれないです。民藝運動でも、当時の柳宗悦や濱田庄司なども、繋がりを大事にしたいという気持ちの方が大きかったのではないかと思うのです。『民藝』という言葉を作り、その言葉のもとに集まる仲間がいる。僕も今やっている動機としては、その気持ちの方が強いですね。
中川
中川 融民藝店さんとのお付き合いは長かったけど、店を継ぐ準備期間は短かったそうですね。
山本
山本 正式に動き始めたのは2021年の10月ぐらいで、品物や什器、備品、建物の契約、資金繰りはどうするのか、小林さんご夫婦も高齢なので無理のないよう年末まで営業しながら、ゆっくりチェックしていきました。年が明けて約ひと月で一気に片づけたので、本当に時間はなかったですね。

各地の作り手さんの所へ挨拶に行き、店の手直しもしてからと思ったのですが、「そんなに間を空けちゃダメだ」とのお声もいただいて。待っている方もいらっしゃいましたし、まずはスタートしてみようと。使っている棚、什器、置いてある品物も融民藝店の時のままで再開しました。
中川
中川 再開されたときの反響はいかがでしたか?
山本
山本 それが、「ありがとうございます」と言われるんですよ。僕、何もしていないのに。
中川
中川 いや、そうだと思いますね。まず「引き継いでくれたこと」に、ありがとうでしょう。
山本
山本 まずはそうでしょうか。だから本当に、頑張って続けないといけないと思いました。
中川
中川 感謝の言葉は地元の常連さんから言われましたか?
山本
山本 地元の方にも県外の方にも言われました。僕が引き継ぐことを融民藝店のお客様名簿の方にお葉書で知らせたら、丁寧に手紙を下さる方がいて、いかに全国に融民藝店に通った方がいるのかということがわかり、プレッシャーも感じました。

小林さんには、融民藝店という名前も変えていいよと言われていたんです。でも、やっぱりあの白い看板の『みんげい融』という文字や、ウインドウの景色を思い浮かべると、横文字の看板が付くなんて想像できませんでした。そんな経緯で看板も店の名前もそのままにしたのですが、みなさん喜んでくださって、自然の流れとして一番いいと思いました。
中川
中川 小林さんから、店はこういうふうにやっていってもらいたいというようなお話もなかったのですか?
山本
山本 まったくないんですよ。ただ僕が店をやるというのは、若い方たちが民藝店をやるのとは違うテーマがあると思っています。事業承継、引き継ぐということでスタートしていますから、融民藝店が何を大事にしていたのかということは考えていますね。

融子さんが店を営まれていたときは、僕からすると考えられないぐらいサービスしているんです。県外の方の送料やギフトの包装代をいただかないとか、僕はちょっと真似できないかな。また、作り手が好きなように作るのではなく、「もう少し縁が厚い方が安心して使える」とか、使い手が望むことを融子さんなりにかみ砕いて伝え、形にしていくんです。

作り手の手仕事が世の中に見てもらえるように、平等にチャンスを作ろうともなさっていました。「ふもと窯」で長く修業をされた熊本の眞弓亮司さんの器をこの店に置いているのですが、独立したときに作品を持って全国を回ったけれど、最初は見向きもされなかったそうです。そこで、融子さんが使い手の立場に立ったアドバイスも伝え、融民藝店に置くようになりました。しかも全部買取り。お店としては、売れた分だけお支払いするほうが負担は少ないですが、融民藝店はそれはしませんでした。作ってほしいものがあるときは、逆に前払いすることもありました。「融民藝店さんに置かれているんだったら」と、眞弓さんの器を置く店が全国に増えていったそうです。

融子さんの所に、お店を始めたいという方が来れば、どんどん紹介して、新しい繋がりを作るお手伝いもされていたので、それは僕も大事にしていきたいですね。
中川
中川 山本さんが新たにやりたいこともありつつ、それまでの融民藝店さんのやり方も引き継いで、ということですね。
山本
山本 どちらかというと引き継ぐことを大事にしようと思いました。僕がやりたい新しいことではなく、まず使い手がいて、その要望を聞いて作り手ともコミュニケ―ションを取る。そうすればお客様も喜んでくださるし、ちゃんと売れるので作り手も成り立ちます。作り手が忙しくなれば、また新しい作り手を応援します。融子さんが作り手と使い手の関係をうまく作っていった結果、店が長く続いたのだと思います。
中川
中川 融民藝店の機能でしょうね。普通は、売れる作り手さんを囲い込むじゃないですか。そうではなくて、みんなが嬉しいことが倍々となって増えていき、三方良しの商いというか、良いスパイラルが生まれています。
山本
山本 今みんながSNSを当たり前に使って、通販で買えるようになって、お店が存在する意味って何だろうとずっと考えていました。そういう意味では、融民藝店がこの店でしかできない形でちゃんと機能していたと思うので、僕もその役割は続けていきたいですね。
中川
中川 作り手、使い手という言い方はよく聞いていたのですが、「配り手」という表現は、民藝の世界では以前から使われていたのですか?機能としては最近のことのように思いますが。
山本
山本 遡っていつからかはわかりませんが、わりと民藝運動の初期からあったようです。「作り手」に対して「手」を使った言葉で当てはめていったとき、「使い手」がいます。そして「売り手」にせず「配り手」にしたのは、当時の方たちの言葉のセンスですね。企業でいう「売る」という言葉の、お客様や関係者に対する「気配り・目配り・心配り」という意味合いが「配り手」に通じてより強調されていると思います。単純に「売り手」とせず、関係性を構築していく立場の人としての「配り手」という表現は、とてもいいなと思いますね。
中川
中川 何か配り手と作り手さんたちとの印象的なエピソードはありますか?
山本
山本 これは融民藝店の店主だった小林融子さんの存在の大きさだと思うのですが、作り手に対して結構厳しい面があったんです。「使い手の立場からすると、こんな装飾はいらない」とか、徹底して言っていたみたいです。

眞弓さんの「しのぎ」という削る技法も、やろうと思えば花の絵などを彫り込むこともできます。でも融子さんは「手の込んだ模様はいらない」と言うんです。それよりシンプルにしのいで、たくさん作ってみんなに届けて、と。眞弓さんとしては、「融子さんが目にすると思うと、変なものは送れないな」というすごいプレッシャーがあったみたいです。眞弓さんは巧みな技術をお持ちの方ですが、融民藝店に届くのは比較的シンプルで、素朴で、数が揃う物を作ってくださっています。それは融子さんのおかげですね。
中川
中川 小林さんは民藝思想を徹底していたんですね。
山本
山本 それが・・・融子さんの時代は外村さん、柳さん、濱田さんと、民藝運動のカリスマたちがいた時代ですから、「融子さんもそういう先輩たちと同じように民藝の精神を広めようというお気持ちが強いのでしょうか」と聞いたら、「まったくない」と言っていました(笑)。順番が『民藝』が先じゃなくて「暮らしで使う道具であること」が最初なんです。その姿勢を50年貫いたわけで、その結果として「融子さんがやってきたことが民藝なのだ」と言えるのではないでしょうか。

これだけ全国に工芸店があって、自分の店で買ってほしいとなると「うちだけ特別な仕上げで」などと言ってしまいがちですけど、そうではなく、「作り手さんも無理なくたくさん作れて、使い手も買い求めやすく」と、全体のことを考えていらっしゃったのだと思いますね。
中川
中川 小林さんのそういった思いは、お店を引き継いでから強く感じられたのでしょうか。
山本
山本 以前から眞弓さんや、惣堂窯の掛谷さんが、融子さんの存在の大きさを話してくださっていました。掛谷さんは主に「練上げ」という技法を使われるのですが、表面的な模様に目が行きがちなので、最初はずいぶん悩まれたようです。でも民藝を通じて、先輩方の仕事から方向性をみつけて、土の動きを感じるような幾何学模様にしています。そういう気づきを融子さんを通じて得たという話を作り手さんから聞くにつけ、こうした配り手としての役割は僕が続けていかなければならないことの一つだと思いました。
【つづきます】

民藝運動とは
「民衆的工藝」を「民藝」と呼び、日本各地に残る機能的な美しさを備えた日々の暮らしの道具を保存し、普及、発展させていった運動。大正時代末期以降、提唱者である思想家・柳宗悦(やなぎ むねよし)らが日本各地を訪ね、手仕事を発掘していった。
柳 宗悦(やなぎ むねよし 1889~1961)
『民藝運動の父』と呼ばれる思想家。東京帝国大学哲学科を卒業後、イギリスの陶芸家であるバーナード・リーチや神秘的宗教詩人で画家でもあったウィリアム・ブレイクらに触発され、宗教的真理と「美」の世界をつなぐ思想を確立した。「用の美」や「直観」が思想のキーワード。日本民藝館の初代館長。
濱田庄司(はまだ しょうじ 1894~1978)
柳宗悦や河井寛次郎らと民藝運動を興した近現代の日本を代表する陶芸家。20代後半でバーナード・リーチと共に渡英し、イギリスで陶芸家として活動。1923年に帰国し、栃木県益子に居住、作陶の場とした。柳宗悦の没後、日本民藝館の二代目館長に就任。
外村吉之介(とのむら きちのすけ 1898~1993)
1948年、倉敷美観地区に開館した倉敷民藝館の初代館長。関西学院大学神学部を卒業し、牧師であり織物の研究者でもあった外村吉之介に実業家・大原総一郎が館長就任を要請した。倉敷の民藝活動に助言を続け、倉敷美観地区の町並み保存にも貢献した。
眞弓亮司(まゆみ りょうじ 1964~ )
小代焼ふもと窯の井上泰秋氏に師事。1999年、熊本県玉名郡和水町にて独立し、まゆみ窯を開く。
掛谷康樹(かけや やすき 1969~ )
玉川大学芸術学科陶芸専攻卒業。1998年、広島県福山市に惣堂窯を設立。「練上げ」の技法を主に、生活の器を作陶している。

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