民藝を訪ねて
第四回 須浪亨商店
須浪亨商店
須浪 隆貴
SUNAMI Ryuki
プロフィール
須浪亨商店 須浪直樹
対談
おかやま住宅工房 中川大
おかやま住宅工房
中川 大
NAKAGAWA Futoshi

01 祖母の姿を見て体で覚えたいかご作り。

中川
中川 織り機のある納屋も、この工房も、籠とか器とか、民藝のコレクションがたくさんありますねえ。
須浪
須浪 織り機は、おばあちゃんが30〜40年ぐらい前に作って、壊れたら直して、使っています。父方の祖母なんですが、85歳で元気です。小学生の頃から祖母が籠を作るのを10年ぐらい見て育ちました。
作り方を聞いたりはしましたけど、おばあちゃんは「教えていない。」と言っていますね。手伝うとお小遣いがもらえたし。でも、一つ作れるのと、製品がいくつも作れるのは違います。サイズを整えたり、コロコロと特性が変わる素材を扱ったり、いかご作りの調子がいい時と悪い時と、一通り経験するのに何年かかかりましたね。
中川
中川 家はもともとイ草の仕事をされていたんですか?
須浪
須浪 イ草を作って畳表や花ござを作っていたんですが、僕が11歳の時に父が亡くなって、一切の仕事をやめたんです。その後、おばあちゃんが籠を作り始めました。僕も、もともと籠づくりのような手仕事が好きだったし、小遣いももらえるしで、手伝っていました。男手がいなかったので、トラクターに乗ったりもしていましたよ。
中川
中川 その後、美術関係の専門学校へ行かれたんですよね。
須浪
須浪 作ることが好きだったので、あまり考えずに、専門学校の彫金科に入ったんです。高校の頃から、バイクをいじったり、籠を編んだりする方が楽しくて、皮とか洋服が好きだったので、もらったお小遣いで変わった布を買って何か作ったり。
将来のことは、特には考えていませんでした。専門学校の時に、皮の作家さんの所でバイトをしていたんですけど、そこで初めて作家業という生き方があることを知ったぐらいなので、特に何になりたいとかはなかったんです。
中川
中川 だけどそれが今、仕事につながっているんですね。
須浪
須浪 専門学校を卒業してどこかへ就職するのは自分には向いていないと思ったし、籠なら作れるということでやり始めたんです。でも専業になるとは思っていませんでした。陶芸とか吹きガラスは仕事になりそうだけど、籠って仕事になりそうになかったので、半分ぐらい籠を編んで、他でも仕事をして、どうにか暮らせるだろうと思って始めたんです。まだ二十歳そこそこで失うものは何もない。今やってしまえと。
卒業してすぐはアルバイトもしていましたけど、始めて1年後ぐらいから注文がもらえるようになってきました。最近は仕事が増えてきたので、編むのや最後の処理など、おばあちゃんも力がいらないことを手伝ってくれています。一緒にできるのはありがたいです。
中川
中川 民藝の世界とのつながりはあったんですか?
須浪
須浪 2011年、17か18歳の時、東京の駒場にある日本民藝館に初めて連れて行ってもらいました。『日本民藝館展』という公募展が年に1回あるんですけど、おばあちゃんが10年ぐらい出品していて、僕も手伝っていました。その頃、おじいさんの介護でおばあちゃんが忙しくなってきて、「仕事をやめようと思うから、一度『日本民藝館展』に行ってみたい。ついて来てほしい。」と言われて、ついて行ったんです。その時、初めて、ほかの地方にも籠づくりの仕事があることを知りました。
中川
中川 民藝関係のお店とはつながりはあったんですか?
須浪
須浪 それがあまりなかったんです。倉敷の『民藝 融』さんにも籠を持って営業に行きました。東京にある大きい荒物問屋さんにも作ったものを卸したり、付き合いのあったイ草業界の物産展に出展しているような方に買ってもらったりしていました。岡山の『くらしのギャラリー』さんも「この籠が倉敷にあるのは知っていたけど、誰が作っているかは知らなかった。」とおっしゃっていました。自分でも民藝関係の店を調べて交渉しに行って、取引先が広がっていきました。
中川
中川 今はイ草の籠というと、お洒落なイメージを持っている人が多いと思うけど、須浪さんが作り始めた時はどうだったんですか?
須浪
須浪 今ほどではないにしても、買ってくれる人が増えてきたなという印象でした。おばあちゃんが作っていた時代は、本当に実用的な使い方で、荒物屋さんで売っていましたから。
デザインも変えたものと変えないものがありますね。僕はもともと、民族とか風俗、その地域でできた形などが好きで、民藝が好きなので、変えるところと変えないところとがあって、形をできるだけ変えずに、ものの機能をよくするために仕様を変えることはあります。
例えば、闇市に行く時の手提げ籠として作られた闇籠なら、形と作り方が昔のままでも、A4サイズのものが入るストレスのないサイズ感で作ってあげれば、今の生活に当てはめて使ってくれる人がいるんじゃないかと思うんです。そう考えて、変えないところと、自分なりに変えてみるところと、両方やっています。
中川
中川 古い本がありますけど、こういう本もよく読まれるんですか?
須浪
須浪 古い本を買ってきて読むのが趣味です。郷土史とか、外村さんや柳さんの本も読みますし。柳さんの全集の最初は、宗教のことでちょっとよくわからないんだけど。
民藝の世界は、考え方よりモノから入りました。風土とか気候が影響してできるモノが好きで、それが民藝の中にあるんです。民藝という言葉が生まれるに至った時代背景と、言葉ができた理由が知りたい。 そこから逆に民藝の世界に入っていった感じですね。普通、僕らの世代は柳宗悦さんより宗理さんの方が身近だから、雑誌の『CasaBRUTUS』とかの「柳宗理特集」とか、今思えば買っていましたね。関心をもつようになったのは、仕事を始めてからですけど(笑)。
【つづきます】

民藝とは
「民藝」とは「民衆的工藝」のことで、大正時代末期に思想家・柳宗悦(やなぎ むねよし)氏らによって提唱された。1936年には東京・駒場に日本民藝館を創立し、柳氏が初代館長に就任。その後も、機能的な美しさを備えた日々の暮らしの道具を保存し、普及、発展させる運動は広まり、全国に民藝館が設立されていった。
外村吉之介(とのむら きちのすけ 1898~1993年)
1948年、倉敷美観地区に開館した倉敷民藝館の初代館長。関西学院大学神学部を卒業し、牧師であり織物の研究者でもあった外村氏に実業家・大原総一郎氏が館長就任を要請した。倉敷の民藝活動に助言を続け、美観地区の町並み保存にも貢献した。
柳宗悦(やなぎ むねよし 1889~1961年)
『民藝運動の父』と呼ばれる思想家。東京帝国大学哲学科を卒業後、イギリスの陶芸家であるバーナード・リーチや神秘的宗教詩人で画家でもあったウィリアム・ブレイクらに触発され、宗教的真理と「美」の世界をつなぐ思想を確立した。「用の美」や「直観」が思想のキーワード。日本民藝館の初代館長。
柳宗理(やなぎ そうり 1915~2011年)
日本の工業デザイナーの草分け。1957年にイタリアで開催された国際博覧会でバタフライ・スツールが世界的な評価を受ける。フランスの建築家ル・コルビュジエに影響を受けて家具や調理器具、照明器具などの日用品のデザインを数多く手がけ、シンプルでモダンなデザインは時代を超えて根強い人気が ある。柳宗悦の長男。
いかごについて
イ草の端材を使って織り機で作る籠。
須浪亨商店は、代々、岡山県倉敷市の地場産業であるイ草栽培に従事し、畳表や花ござを製造していたが、2004年頃から隆貴氏の祖母が「いかご」づくりを始める。もともとは荒物屋で売られていた買い物かごだが、ナチュラルなデザインや風合いが人気となり、ファッションの一つとして愛用するファンが増えている。

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