おかやま住宅工房
中川 大
NAKAGAWA Futoshi
中川
仕事で、お客様の家を訪問すると、こちらの手織りの敷ものが置かれているお宅があるんです。そういったお宅は手仕事に興味があって、その良さを理解されている方のように見受けられますね。
石上
岡山県、特に倉敷は、この研究所を作った外村先生が、手仕事について熱心に広められたので、関心のある方がたくさんいらっしゃるんだと思います。特に女性に広めましたから。
中川
趣味のいい雰囲気で、手仕事はこうして根付いていくんだなと思うんです。そうやって他の方の愛用品として、こちらの作品を拝見するんですが、今日お訪ねするまで、倉敷本染手織研究所のことは良く存じ上げていなくて。今日はぜひ研究所の歴史やお考えを伺いたくて、参りました。よろしくお願いします。平成5年に外村先生からこちらの研究所を引き継がれたそうですね。
石上
40回生まで外村先生が教えられて、今65回生ですから引き継いで25年になりますね。私の主人が外村の四男で、私は嫁いでまいりました。
主人はここ倉敷で生まれたんですが、国家公務員で全国を回っていました。
30代になって、昭和46年ごろに研究所の跡を継ぐために戻って来て、倉敷民藝館を手伝ったりしていました。先生が平成5年に亡くなり1年休校しましたけど、奥様の清子先生が跡を引き継いで私がお手伝いしていました。ところが1年経つか経たないかで清子先生が亡くなってしまって、そこから私と主人で始めました。それまで私は芹沢先生の所で型染を勉強していたんです。
中川
引き継ぐにあたって、外村先生は何か言伝のようなものを遺されたんですか?
石上
いえ、先生はそういう方ではないので、特になかったです。私は時々来て一緒に勉強したり、「染め」はわかっていましたので、「染め」やウールなどの指導に来たりしていました。私は家で仕事場を持って「染め」をずっとやっていたので、ここへ来てもすぐ手伝うことができたんです。
中川
生徒さんは、全国からいろんな志を持っていらっしゃると思うのですが、民藝の思想的観点からすると、生徒さんは、「有名になりたい」という考え方は少し違うということですよね。
石上
そうですね。もともと外村先生がここを始めたとき、「織物は、家族のために織ってほしい」というのが一番の想いだったんです。家族のために作るというのは一番純粋に手をかけるわけで、金銭とは関係ないですからね。想いがちゃんと伝わるし、より丁寧にするし、一番いい織物なんです。先生は世界中を歩いて、博物館でいろいろな織物を見ていましたから、お嫁さんが子どもや親や夫のために作ったものが一番いい織物だというのが分かっていらしたんです。
中川
作家になるのではなく、家族のために。
石上
私も織物作家でしたけど、一人でやっていても大した影響力はないわけです。でも織り方を教えてあげて、それを家族が使ってくれれば見てもらえるチャンスも増えるし、良いものが広がっていくというのが一番の目的だったんです。いつもこの研究所の卒業式では「子どものために作りなさいね。」というのがはなむけの言葉でしたね。ですからここを卒業した人は個展をして、ああして、こうしてということはあまり考えていないです。それより、いいものを作りたいという気持ちの方が大きいと思います。
中川
全国から来る生徒さんは、どうやってこちらの研究所のことを知るんですか?
石上
それが不思議なんです。一度も宣伝したことはないんですけど・・・今はインターネットで調べて来る方がずいぶん増えましたが、昔は雑誌に載ったりということもあまりなかったので、人づてに聞いて来られていたようですね。
中川
自分で織りたい、糸から作りたいという方たちが全国から来られるわけですね。
石上
たぶん外村先生の代までは、親に言われて来る方が多かったんじゃないでしょうか。だから若い人が学校を卒業してすぐ来られていました。それが今は違うんです。自分で行きたいから来る。働いて資金を貯めてから来る人が多くなりました。
中川
でも今、インターネットでもこちらの情報はなかなか見つけられませんけど、皆さん、ここの研究所の方針もちゃんとわかったうえで来られるんですよね。
石上
そうですね、ある程度は知って来られていると思います。
中川
研究所のカリキュラムはどのようになっているんですか?
石上
4月に入学し、3月に卒業する1年間です。研究所ができた時から60年以上、何を教えるか、作るか、カリキュラムはずっと変わっていません。柳宗悦の『工芸文化』という書物を1年間講読するのもずっと変わっていません。それは主人が担当しています。
中川
1年間で何人ぐらいの方が勉強されるんですか?
石上
多い年で10人ぐらいですが、その人数ではとてもしんどいので減らしています。今年は7人。それでいっぱいいっぱいですね。
中川
皆さん、住み込みですか?
石上
そうですね、ここに住みながら勉強しますが、地元の方は通って来ます。今年は、群馬県からご夫婦で、わざわざこちらへ引っ越して来られた方もいらっしゃいます。そういう方が最近増えました。
中川
え~、すごいですね。
石上
びっくりしますよ。
中川
今は3月の卒業制作に向けて糸を作っている時期だそうですね。
石上
そうです、機に糸をかける用意をしています。1年間のカリキュラムは決まっていて、外村先生の頃にはなかった内容が増えてきています。生活様式が変わってきていますのでね。昔はお座敷で座布団の生活でしたけど、今は椅子の生活になって、椅子敷きのノッティングという織物をやりたくて来る人がいます。以前は1枚か2枚織り方を覚えたら終わりでしたけど、今はちゃんと腕を上げさせないといけないので、カリキュラムに組み込んでいます。
中川
こちらの研究所は「作った織物を生活の中で生かす」という考え方だそうですが、昔と今とでは生活様式がかなり変化していると思います。それについてはどのように感じられますか?
石上
それは何をどう使うかだけで、作るものや手法はそんなに変わらないです。織った布で着るものを作るのか、袋やバッグを作るのかで、デザインはその人によって多少変わりますが、織ったものそのものは変わらないんです。
中川
作るもののデザインが少し変わるんですね。織る柄は決まっているんですか?
石上
織り方にはまず「平織り」がありますね。その次に「綾織り」で、次にいろいろな組織というものがあるんです。その組織を機にどう掛けるかによってさまざまな柄が出てきます。糸が全部同じ所に通っていれば糸が上がり下がりして平織になりますが、「123」とか「12321」とか、いろんな番号に通すと、出てくるものは平織りじゃなくなるんです。さまざまな組織があってそれを勉強していくんですが、足の操作にも番号が付いていて、その組み合わせで織っていくので、とても複雑になります。
中川
機織りって、ただ腕を動かしている所しか見ないですけど・・・。
石上
仕掛けがすごくて、結構忙しいです。
中川
パターンを間違えると・・・。
石上
ボツですね。間違えた所の前に戻ります。手織りは戻れるんです。機械は間違えたら傷ものになりますけど、手織りは戻って、またそこから始めることができます。
中川
気づかずに織り進めて行っちゃったら?
石上
行っちゃったらダメですね。あとになって、ある時突然見つかります。
中川
水を使って冷たい思いをして糸を作るのに、もったいないことはできませんね。
石上
昔から言われました。三寸、10cmあったら捨てない。捨てたら怒られました。
中川
まだ使えるということですね。
石上
そうです、最終的にはノッティングに使います。ノッティングは必ず切って短くしたものをつないでいくので、三寸、10cmあったら1パーツとして使えます。
中川
ノッティングだったら作るのにどれぐらいかかるんですか?
石上
織るだけなら、早い人は2日ぐらいで織ってしまうんですけど、その前の準備が大変なんです。皆さん織物といったら、機を動かしている所しか思い浮かばないでしょ。それはもう99%終わっているんです。その前の準備が大変。
中川
そこまで来るのが大変で、8割が段取りということですね。
石上
そうなんです。織るのは最後の1割もないですよ。染めも1日では終わらないから、染めている時間の方が長いです。今日染めて、媒染(ばいせん:染料を繊維に定着させる工程のこと)して一晩おいて。また次の日染めて、媒染して一晩置いて、と何日もかけないといけないんです。
中川
そうなんですね、織る工程が花形のように見えますけど。機械織りだと「これは商品にならない」といった言い方をしますが、家族のために手織りしたものは失敗というものはないですか?
石上
いや、ありますよ。そういうのは自家用になるか、失敗を承知で友達にあげちゃうとか。どうしてもという時はほどいてでも使います。
中川
材料の糸を染めて、一から段取りするとなると気が遠くなりますね。
【つづきます】
外村吉之介とは(とのむら きちのすけ 1898~1993)
1948年、倉敷美観地区に開館した倉敷民藝館の初代館長。関西学院大学神学部を卒業し、牧師であり織物の研究者でもあった外村氏に実業家・大原総一郎氏が館長就任を要請した。倉敷の民藝活動に助言を続け、美観地区の町並み保存にも貢献した。
柳宗悦とは(やなぎ むねよし 1889~1961)
『民藝運動の父』と呼ばれる思想家。東京帝国大学哲学科を卒業後、イギリスの陶芸家であるバーナード・リーチや神秘的宗教詩人で画家でもあったウィリアム・ブレイクらに触発され、宗教的真理と「美」の世界をつなぐ思想を確立した。「用の美」や「直観」が思想のキーワード。日本民藝館の初代館長。
芹沢銈介とは(せりざわ けいすけ 1895~1984)
静岡市出身の染織家。柳宗悦を中心とした民藝運動に共感し、柳、河合寛次郎、濱田庄司らと交流を深めた。沖縄の紅型に感銘し、型染の手法で独自のデザインによる作品を数多く生み出した。倉敷市の大原美術館にある工芸館・東洋館は柳宗悦の紹介で芹沢が設計したことで知られる。(参考:大原美術館HP)
倉敷民藝館とは
1948年、倉敷美観地区に開館。江戸末期の蔵を改修した建物内に、東洋や西洋各地の民衆的工芸品を約一万五千点収蔵。そのほとんどは、初代館長だった外村吉之介氏が国内や海外から蒐集した。普段の暮らしに生きる手仕事の美しさを伝えるため、展示だけでなく、講座や販売会も随時開催している。
ノッティングとは
羊毛糸の織物で、縦糸に糸束を結びつけることからノッティングと呼ばれる。幾何学的かつシンプルな柄で織られているため、生活の場がすっきりとまとまり、飽きがこない。丈夫なため、椅子敷きやフロアの敷物として長く使われる。倉敷民藝館・初代館長である外村吉之介氏が考案した柄が受け継がれている。