民藝を訪ねて

日々の暮らしの中であたりまえにある、誰かが作ったであろう器や布や家具。機械で作られたのではなく、人の手で作り出された『民藝』という名のものたちは、ひっそりと、でも何かを言いたげに。柳宗悦らが提唱した『民藝』を現代の時代性にアップデートあるいはチューニングするために、作り手は何を考え、どうアプローチしているのか。そして、新たに生まれる「変化」にどう向き合うのか。

民藝の作り手として活躍する人々の「暮らし」に対する思いや、制作についての考え方にフォーカスし、作り手であると同時に生活者として、ものづくりに携わる姿を追います。

これまでの対話集 第一回 備中和紙 第二回 倉敷本染手織研究所 第三回 倉敷ガラス

第三回 倉敷ガラス
倉敷ガラス
小谷栄次
KODANI Eiji
小谷栄次
対談
プロフィール
おかやま住宅工房 中川大
おかやま住宅工房
中川 大
NAKAGAWA Futoshi

01 父から受け継いだ倉敷ガラスの技。

小谷
小谷 まずは窯を見てもらいましょうか。一般的な工房は窯に一度火をつけたら一年から一年半は火をつけっぱなしなんだけど、うちは一回ずつ火を消すんです。

窯は、ガラスを溶かすためのものと焼くためのものが二つ。この窯の口に入らない大きさのものは作れないんだけど、もう少し大きいものを作る時は外の窯を使います。年に一回作るかどうかだけどね。最後は約500度の徐冷炉に入れて、自然冷却で翌朝100度ぐらいまで冷まします。ガラスは急激な温度の変化に弱いから、ゆっくり冷まさないと、後から割れることもありますよ。
中川
中川 こういった道具はお父様が考えられたんですか?
小谷
小谷 そうですね。親父の時代は徐冷するにも温度計がないし、吹き竿の長さも自分で短くして工夫したり。ガラスを切るのに植木ばさみを試したり、型を取るために空き缶を改良したり。昔は教則本もなかったし、秘密主義だったから全部が手探りだったそうです。吹きガラスで吹き竿から別の竿に移す作業をポンテといって、コップの底に丸い跡が付くんです。コップ作りのきっかけになったメキシコのコップの底を見て「この丸い跡は何?」というところから始まってるからね。

僕が今使っているものも、基本的に親父が考えた窯や道具と全く変わっていません。道具は揃っていたし、作ったものを置いてくれる店もある。そういう点では恵まれてたね。この窯はつい先日漏れが出たので修理したばかり。30年ぐらい前、このあたりはイ草の産地で、その関係の人が機械やバーナーを窯に合うように改造してくれたんです。上手に改造してくれてるもんだから、今は誰も修理ができない。バーナーは二台しかなくて、これを大事に使わないといけないので、僕も教えてもらいながら自分なりに道具を工夫しています。
中川
中川 お父様が倉敷ガラスの創始者ということですよね。
小谷
小谷 もともと親父の仕事は、輸出向けにクリスマスツリー装飾のガラス玉を作ることでした。一日に2000個作っていたそうですが、プラスチックが普及したことで需要が減っていきました。そんなとき、倉敷民藝館を度々訪ねていた民藝愛好家が「こんなコップはできないか。」と持って来たのがメキシコのコップだったんです。

最初は断っていたけど、父も負けず嫌いなところがあるから、残ったガラスで作ってみたんだね。そのとき倉敷民藝館館長だった外村先生とも出会って、作ったコップを持って行ったらすごく喜んでくれたので、もう少し続けてみようと思ったそうです。

始めた頃は、よく割れていたらしいですよ。買った人は割れたコップを親父の所に持って来て、またお金を出して買っていってくれた。民藝は昔、値段が安かったから、そうやってみんなに助けられてやってきたんだね。それに、個人の工房でガラス作品を最初から最後まで作るスタジオ・グラスのスタイルは当時、例がなかったようです。
中川
中川 お父様の仕事に対しては、どんなふうに思っていましたか?
小谷
小谷 小学校五年までは水島に住んでいて、家と仕事場がつながってたんですね。窓を開けたらすぐそこで仕事をしていました。その後、ここへ引っ越してきて、仕事場の横に自転車を止めていたからいつも仕事をしている父を見るでもなく見ていて。

小さい頃は危ないから仕事場には入れてもらえなかった。そのうち兄弟子が通うようになって、僕も夕方に高校から帰ってきたらガラスを吹いている様子を見ていました。一生懸命、吹きガラスの勉強を始めたのは、大学で行っていた大阪から帰って来た23歳のころですね。

親父が倉敷の大学で教えていなかったら多分生活は大変だったと思います。ちょうどバブルも重なったから、そのおかげで僕は大阪の大学に行けたんですよ。県外の大学に行くのは大変なことでしたから。
中川
中川 23歳でお父様に師事されて、本格的に始められたんですね。ずっと近くで見ていて、吹きガラスをやってみたいという気持ちが募っていったんでしょうか。
小谷
小谷 あとから考えてみたら、岡山工業高校のデザイン科へ行ったのがきっかけだったと思うね。 岡工のデザイン科に入ったのは、自由に絵が描けるからぐらいの気持ちだった。ただいろいろ勉強しているうちに、民藝思想の提唱者である柳宗悦さんの息子、柳宗理さんのデザインが好きになったんです。そのころは全く民藝のことは知らなかったんだけど。

僕が日本民藝館の奨励賞をもらえた年は、ちょうど柳宗理先生の館長任期最後の年でした。もう一年遅かったら、柳先生から直接もらえていなかったと思うと、無茶苦茶うれしかったですね。数回ご挨拶をしたぐらいだけど、高校時代からの柳先生への思いが、大きく影響しているかもしれませんね。
中川
中川 ご縁があったんですね。修業時代はどんな生活だったんですか。
小谷
小谷 兄弟子たちもそうなんだけど、親父が仕事を終えたら僕たちが吹ける練習の時間。最後に僕が作ったものを徐冷炉に入れておいたら、翌日父が最初に徐冷炉に入っているものを出してきて、いつも僕が座る椅子の横に置いてあるわけです。

放任主義というわけではないんだけど、いいも悪いも言われない。違うのはわかるんだけど、何をどうしたらいいかわからない。

それに親父の仕事が終わった後に練習すると、窯の底に残った生地になるので、パイプに巻きにくいんですよ。一番難しい生地で練習してることになる。自分で窯を持って上生地で作ったらすごい楽だった。

あのやり方だと、どうしても小鉢を作るのに三年かかって、三年経った時点でなんとか格好になります。二人の兄弟子はきっちり三年で放り出されて、僕ももう少しで三年というときに倉敷の羽島で兄弟子と一緒に窯を作ってもらいました。それで「明日から小鉢作って持ってこい。」となる訳です。
【つづきます】

倉敷ガラスとは
昭和40年代前半、ガラス玉作りの職人だった小谷眞三氏が、民藝愛好家の要望に応えてガラスのコップを作ったのが始まり。倉敷民藝館・初代館長の外村吉之介氏が、「用の美」をよく表した味わい深いコップに『倉敷ガラス』と名付け、後に倉敷特産の民藝品となった。
民藝とは
「民藝」とは「民衆的工藝」のことで、大正時代末期に思想家・柳宗悦(やなぎ むねよし)氏らによって提唱された。1936年には東京・駒場に日本民藝館を創立し、柳氏が初代館長に就任。その後も、機能的な美しさを備えた日々の暮らしの道具を保存し、普及、発展させる運動は広まり、全国に民藝館が設立されていった。
倉敷民藝館とは
1948年、倉敷美観地区に開館。江戸末期の蔵を改修した建物内に、東洋や西洋各地の民衆的工藝品を約15,000点収蔵。そのほとんどは、初代館長だった外村吉之介氏が国内や海外から蒐集した。普段の暮らしに生きる手仕事の美しさを伝えるため、展示だけでなく、講座や販売会も随時開催している。
柳宗悦(やなぎ むねよし 1889~1961)
『民藝運動の父』と呼ばれる思想家。東京帝国大学哲学科を卒業後、イギリスの陶芸家であるバーナード・リーチや神秘的宗教詩人で画家でもあったウィリアム・ブレイクらに触発され、宗教的真理と「美」の世界をつなぐ思想を確立した。「用の美」や「直観」が思想のキーワード。日本民藝館の初代館長。三代目館長は息子でインダストリアルデザイナーの柳宗理氏。
柳宗理(やなぎ そうり 1915~2011)
戦後日本のインダストリアルデザインの確立と発展における最大の功労者と言われるデザイナー。「バタフライスツール」など、ユニークな形態と意外な実用性を兼ね備えた作品が多く知られた。工業デザインの他に玩具のデザイン、オブジェなども手がけた。日本民藝館の三代目館長。
外村吉之介(とのむら きちのすけ 1898~1993)
1948年、倉敷美観地区に開館した倉敷民藝館の初代館長。関西学院大学神学部を卒業し、牧師であり織物の研究者でもあった外村氏に実業家・大原総一郎氏が館長就任を要請した。倉敷の民藝活動に助言を続け、美観地区の町並み保存にも貢献した。

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