民藝を訪ねて

日々の暮らしの中であたりまえにある、誰かが作ったであろう器や布や家具。機械で作られたのではなく、人の手で作り出された『民藝』という名のものたちは、ひっそりと、でも何かを言いたげに。柳宗悦らが提唱した『民藝』を現代の時代性にアップデートあるいはチューニングするために、作り手は何を考え、どうアプローチしているのか。そして、新たに生まれる「変化」にどう向き合うのか。

民藝の作り手として活躍する人々の「暮らし」に対する思いや、制作についての考え方にフォーカスし、作り手であると同時に生活者として、ものづくりに携わる姿を追います。

これまでの対話集 第一回 備中和紙 第二回 倉敷本染手織研究所 第三回 倉敷ガラス

第三回 倉敷ガラス
倉敷ガラス
小谷栄次
KODANI Eiji
小谷栄次
対談
プロフィール
おかやま住宅工房 中川大
おかやま住宅工房
中川 大
NAKAGAWA Futoshi

02 独立して自らの窯を持つ。

中川
中川 窯が別になるということは、独立しなさいということなんですか?
小谷
小谷 自分の窯を持つというのは一つの過程で、完全な独立というのは、作ったものを親父に売って、それが倉敷ガラスとして販売されるということなんです。最初は作りやすい小鉢だけですけどね。コップを作るのは難しくて、やはりある程度、小鉢に慣れてから。形を揃えるのに半年以上、一年近くかかります。

ガラスの場合、手でちょっと直すということができないから、数をたくさん吹いて感覚で覚えます。成形用の型に吹き込むんだけど、最初に作る玉の大きさが揃ってなかったら、コップの丈が伸びたり、短くなったりしてしまう。同じ大きさに揃えられるまでには、毎日一時間練習して三年はかかります。

独立して注文取るなら、ある程度、形も重さも揃えないといけない。それにはさらにもう少し年月がかかります。検品ではねられるのが嫌だから、はねられそうなのは自分の所で省くんです。一日に30個作っても売り物になるのは10個とか15個しかない。到底食っていけないけど、とにかく何の援助もない。兄弟子もそうでした。
中川
中川 でも逆に、お父様が何も口出ししないとか、援助がないというのは良かったんじゃないですか。
小谷
小谷 こっちも「この野郎!」と思ってましたからね。作らないと食っていけないし。僕の場合は10年目ぐらいで個展をした時に、「明日からお前、自分でやっていけ。」と言われました。そこから急に親父を通さず、自分で売らないといけなくなって、でも店の人はわかってくれてたので、ちょっとずつ売っていきました。

普通は自分でお店に持ち込んで置いてもらって、売れたらお金をもらう。今のガラスをやってる若い子もそうだと思います。「ガラス作家」には自分が名乗ればすぐなれるけど、それで食っていける人はほとんどいないんですね。
中川
中川 『倉敷ガラス』と命名されたのが倉敷民藝館・初代館長の外村先生で、お父様は深い交流があったということですが、小谷さんは外村先生とお話されたことはあるんですか?とても厳しい方だったとか。
小谷
小谷 自分にも人にも厳しい人でしたね。僕が先生と会うのは、新年会のような大きいイベントの時で、遠くから見ることの方が多かったね。眉間にしわを寄せていることが多くて、あまり笑った顔を見たことなかったけど、一度だけ「ああ、これを作ってるんかな。頑張んなさいよ。」と言って、作品を買ってもらったことがあります。

外村先生をはじめ民藝協会などの関係者が、民藝館や行事に着て行くのは、必ず襟のあるシャツで、まずTシャツを着て行かない。Tシャツは下着という認識で、特にプリントの入ったTシャツはだめと厳しかった。僕は民藝館への納品にはTシャツで行くんだけど、それができるようになったのは外村先生が亡くなってから。いまだにプリントのTシャツを着て来るのは僕だけだって言われます(笑)。
中川
中川 よくキャラクタープリントのTシャツを着られるのは、先生のことを逆に意識して?
小谷
小谷 僕が子どもの時に、親父は吹きガラスのことが何も分からずにこの世界に引き入れられて、焼き物にしても、親父ぐらいの年代の人が一番バリバリ活躍してた。民藝もものすごく力があって、親父もそういう中に入っていったから、自然とみんなの波に乗って「民藝ってすごいな。」と思ったんでしょう。

一方で、僕はまだ小さかったでしょ。どこの家でも、靴や弁当箱に漫画やキャラクターが描いてあったりしたんですよ。それが僕のものは「曲げわっぱ」だったり、渋いのばっかりでね。正直、友達がうらやましくて、その反動かな。民藝が嫌いなわけじゃないんですよ。好きなんだけど(笑)。
中川
中川 仕事として『倉敷ガラス』というブランドを受け継ぐのであれば、民藝の思想は外せないですよね。そういう点はご自身の中でどのように消化されたんでしょうか。
小谷
小谷 民藝ってはっきり言って難しいですね。民藝を本当に勉強し出したら、多分迷いこんでしまうぐらい難しい。最終的に僕は深く勉強するのをやめたんですよ。やめたと言ったらおかしいけど。

民藝協会にも入ったけど、最初は僕より年下はいなかったし、話をする相手といったら親父世代がメインだったので、親睦会とかにもだんだん行かなくなって。

ただ「これからは自分で仕事をしなさい。」と言われてから困ったときには、倉敷民藝館へ行くことがありました。僕の場合、型の参考にするのは大体焼き物だったので、ピッチャーだとこのへんから持ち手が付いてるなとか、いろいろと勉強になりましたよ。あのころは、聞いたら教えてくれる人がたくさんいましたからね。
中川
中川 民藝については、そうやって人に聞いたり民藝館へ行ったりして勉強をしていったわけですか?
小谷
小谷 民藝店も元気が良かったし、そこに集まる人って、本当に民藝が好きで好きでみたいな人が多かったですね。聞けばすぐに答えてくれるし、何もわからなくても楽しくて。

民藝って日本全国に広まって、どこへ行っても合言葉みたいに話ができる。もっと深く掘り下げれば面白いと思うし、民藝が好きですと言うだけでも共通の話題になるよね。

民藝の中に備前焼は入ってなかったので、備前焼のことは何もわからないんだけど、最近グループ展をやり始めて、「これはなんで同じ形なのに値段が違うん?」とか失礼なことを言っても、備前焼の作家さんも丁寧に教えてくれるんですよ。その意味では、人から教わっている部分が大きいかもしれませんね。
【つづきます】

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