民藝を訪ねて

日々の暮らしの中であたりまえにある、誰かが作ったであろう器や布や家具。機械で作られたのではなく、人の手で作り出された『民藝』という名のものたちは、ひっそりと、でも何かを言いたげに。柳宗悦らが提唱した『民藝』を現代の時代性にアップデートあるいはチューニングするために、作り手は何を考え、どうアプローチしているのか。そして、新たに生まれる「変化」にどう向き合うのか。

民藝の作り手として活躍する人々の「暮らし」に対する思いや、制作についての考え方にフォーカスし、作り手であると同時に生活者として、ものづくりに携わる姿を追います。

これまでの対話集 第一回 備中和紙 第二回 倉敷本染手織研究所 第三回 倉敷ガラス

第三回 倉敷ガラス
倉敷ガラス
小谷栄次
KODANI Eiji
小谷栄次
対談
プロフィール
おかやま住宅工房 中川大
おかやま住宅工房
中川 大
NAKAGAWA Futoshi

03 民藝思想に自らの感覚を込める。

中川
中川 民藝のことを掘り下げるのをやめたという話が出たんですけど。
小谷
小谷 外村先生は、柳宗悦先生の本の原本を読みなさいと言うんです。昔の漢字はその一字の中に意味も全部入っているから、一字一字よく調べていったら、短い一文でもものすごく奥が深いことが書かれていると言われたんだけど、原本を読むのは大変だったね。言ってることはすごくよくわかるんだけど。
中川
中川 民藝の考え方に沿ったものづくりをしていこうというのは、ずっと思われていたわけですよね。
小谷
小谷 民藝の考え方にはちょっと宗教的な考え方も入っていて、外村先生もキリスト教だし、柳先生も宗教学の専門家だから、基本的に「揺るぎのない柱」があったんですね。でも僕はそこまでは入り込めなかった。自分なりの揺らぎもある訳です。

だから同じ小鉢やコップでも、親父が作ったものと違うんですよ。兄弟子が二人いて、作ったものを四個並べると、見分けがつくんです。親父の作風から一番離れているのが僕のもので、親父のと同じになるように作り始めるけど、最終的には自分で思う形にしてる。

コップだと親父のよりは1cmぐらい長くて、ビールが飲みやすい。小鉢にしても、基本の形から上の方を広げてるんです。その方がちょっと大きく見える。親父の所に納品していた時は同じ形にしてましたが、独立してからは少し広げています。
中川
中川 それはやはり、ご自身の日々の暮らしの中で感じたものを取り入れているということですか?
小谷
小谷 結局、僕が使いやすいものになっていくね。親父に「あとは自分でやりなさい。」と言われてからは特に。コップも10年ちょっと前までは、作らせてもらえなかったんですよ。

親父の作るコップより、気持ち軽めにというのは意識してるね。コップの飲み口は少し薄めにします。薄くし過ぎると弱くなるので、ギリギリのところというか。やっぱり唇にあたる部分だから、薄い方が飲みやすいかなと思って。

年によって変化するけど、その時に一番使いやすいものを作ります。マイナーチェンジというか、同じようだけど、やっぱり違う。
中川
中川 「民藝」という考え方の根底はずっと変わらないけれどプラスアルファの部分はご自身の感覚を加えていってるということなんでしょうね。
小谷
小谷 僕の場合は「中に何かを入れる」ということをまずは考えていて、オブジェ的なものはあまり作りません。作るのは、食器とか日常に使うもの。
中川
中川 器ということですよね。今、時代として新しいものが出てきたり、昔のものを大切にしようという感覚もあったり、いろいろなものが混在している時代かなと思うんですが、民藝に関してはこれから先、どのようになると思いますか。
小谷
小谷 自分なりに解釈しようと思えばできるわけで、「こうでなくちゃいけない」とは言ってないですよね。「こういうものはいい」と方向性はある程度示されているので、その方向性から大きく外れなければいいんじゃないかなとも思います。

民藝といったら、やっぱり少し堅苦しい印象があって、なかなか若い人が寄りつかない。その時にクラフトとか手仕事という言葉が生まれたんでしょう。あまり難しいことを考えずに、取りあえず「どんなもんかな。」とのぞきに来るぐらいの気持ちでいいと思うんですよ。

僕はクラフトも民藝と一緒だと思ってます。これからは選べる時代なので、作り手も自分で選べばいいと思う。自分は民藝ではないと思っていても、途中から民藝を選んでもいいし。僕もどう変わっていくか、わからんけどね。そのうちオブジェばっかり作り出すかもしれんし、わからないですよ(笑)。
中川
中川 毎日の仕事の中でのアレンジは結構攻めていらっしゃるみたいだし。
小谷
小谷 今、吹きガラスをしている人が岡山県内でも増えていて、僕が始めたころは県内で10人いなかったと思うんです。今、作家としての活動をしている人は50人か100人か。一つの窯を5、6人で回していたり、教室に通って年に一回展示会をするという人も含めてだけど、今ものすごく増えてるんです。

特に、倉敷芸術科学大学を出た子たちは、自分のスタイルを見つけたくて、「これが俺の作風だ!」みたいなことを目指している人が多いです。僕がありがたかったのは、親父があの倉敷ガラスの青色を残してくれたことでしょうね。
中川
中川 あれは色ガラスを混ぜ合わせて作るんですか?
小谷
小谷 親父が青のガラスを溶かして作った最初の青色が「鮮やかすぎて民藝らしくない。」と外村先生があまりよく言わなかったんです。どうしようかと悩んでいたときに、サントリーオールドの緑色のボトルを砕いて入れてみたんです。
中川
中川 え?ウイスキーのサントリーオールドの瓶ですか?
小谷
小谷 そうです。
そのころ住んでいた水島は港町で、バーやスナックが多かったんです。スコッチが自由化される前までは、ウイスキーと言ったらサントリーの「角」か「オールド」だったんですよ。
中川
中川 ダルマって言われてましたよね?
小谷
小谷 そうそう、ダルマの瓶を砕いて青に混ぜて作ったら、「ああ、この色はいい。」と言われて、それが『小谷ブルー』と言われるイメージカラーになったんです。最初の青だったら絵の具そのままの青と同じで、みんな同じ色になるでしょ。緑色を混ぜるという一手間を加えることは、大きな工場ではなかなかできません。一つ色を作ったら、その色が全部なくなるまで使い切らないといけないから。

うちは小さい工房で、仕事が終わったら毎日火を落として、ガラスをかき出してというのをするから、できたんです。今日青色を作ったら次の日は薄青、その翌日には泡を入れて四日目には透明。そんな作り方も小さい窯だからこそできた訳で、それは良かったですね。
【つづきます】

小谷ブルー
偶然から生まれ、倉敷ガラスのイメージカラーになっている青色を小谷眞三氏の名前を取ってこう呼ぶようになった。
倉敷芸術科学大学
1995年に開校した倉敷市にある私立大学。小谷栄次氏と父である眞三氏は共に芸術学部で教鞭を執り、若い世代に倉敷ガラスを伝えた。

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